立川
今週月曜日に用事があり東京の立川に行ってきました。
本当に久し振りで、すっかり変わった駅前を見て驚いてしまいました。
東京駅から中央線の特別快速で40分位でしょうか。
東京駅の中央線の乗り場はだいぶ高いところにホームがあり、エスカレータで上がりますが、丸の内側にあるので新しくお色直しをしている東京駅を裏側から目の前に眺めることができる。
ドーム状の塔などに銅板を貼っているようですが、近くで見るとあまり綺麗とはいえない。
これも少し離れてみれば綺麗なのだろうと思う。
さて、立川というと米軍基地があるというイメージでおりました。なんと昔の人間ですね。
米軍の立川基地(飛行場)が返還されたのは昭和52年(1977)だそうですね。
もちろん返還された後にも行ったことはありますが、跡地にできた昭和記念公園もまだ今のように立派ではなく広い敷地を思い出していました。
たしか、立川に木下サーカスか何かが来ていたのを見に行った記憶があります。
実は私はこの立川の手前の「国立(くにたち)」に中高6年間通っていました。
中央線は開通当時国分寺の次が立川で、距離も長いので中間に駅を建設し、国分寺と立川の間にある駅なので「国立」となったといいます。
もっとも立川駅は明治22年で、国立駅は大正15年ですから、私が生まれるずっと前です。
しかし、その後武蔵野線が交差することになり、国分寺と国立の間に「西国分寺」の駅ができました。
これは昭和48年というので、私が国立に通っていた時にはまだありませんでした。
当然この辺の駅は高架駅ではなくこんなに交通量もなかったのです。
それにしてもすっかり変わってしまっていました。
今度の土日(5/19−20)また中央線の武蔵小金井で工事のため大幅間引き運転があるそうです。
案内が出ていました。高架線にする前の、昔の開かずの踏切問題を思い出しますね。

立川駅北口。駅ビルとルミネ一体で、線路は高架ですから2階に改札があります。

2階から歩道橋広場が伸びています。

こんなか感じです。

歩道橋広場の隅にはこんなオブジェが・・・。
調べてみると立川駅周辺には野外彫刻がたくさん置かれているらしい。
今度来るときには昭和記念公園とともにいろいろな彫刻を見て歩くのも面白そうだ。

北口の通りには中央に木(けやき?)があってこのような通りは好きである。
昔の街路樹を残して通りを広げたのだろう。

北口の前には伊勢丹があり、その奥に並んで高島屋があります。
そこまで2階の歩道橋広場でつながっています。

久しぶりの飛行機雲です。
帰りは東京駅からは高速バスで石岡へ。
しまった。バスは空いていたが、スカイツリーは進行方向右側だったが左側に座ってしまった。


首都高速6号線は隅田川に沿って走ります。
両国から駒形橋・吾妻橋・言問橋と来て、右手は東京スカイツリーが目の前です。
しかし座ったのが左側なのでスカイツリーと反対側の川を下る船をパチリ。
シーズンには屋形舟がたくさん浮かぶ場所です。

やっとカーブで後ろにスカイツリーを撮ることができました。
手前の道路は今通ってきた高速道路です。
← よろしければクリックお願いします。
本当に久し振りで、すっかり変わった駅前を見て驚いてしまいました。
東京駅から中央線の特別快速で40分位でしょうか。
東京駅の中央線の乗り場はだいぶ高いところにホームがあり、エスカレータで上がりますが、丸の内側にあるので新しくお色直しをしている東京駅を裏側から目の前に眺めることができる。
ドーム状の塔などに銅板を貼っているようですが、近くで見るとあまり綺麗とはいえない。
これも少し離れてみれば綺麗なのだろうと思う。
さて、立川というと米軍基地があるというイメージでおりました。なんと昔の人間ですね。
米軍の立川基地(飛行場)が返還されたのは昭和52年(1977)だそうですね。
もちろん返還された後にも行ったことはありますが、跡地にできた昭和記念公園もまだ今のように立派ではなく広い敷地を思い出していました。
たしか、立川に木下サーカスか何かが来ていたのを見に行った記憶があります。
実は私はこの立川の手前の「国立(くにたち)」に中高6年間通っていました。
中央線は開通当時国分寺の次が立川で、距離も長いので中間に駅を建設し、国分寺と立川の間にある駅なので「国立」となったといいます。
もっとも立川駅は明治22年で、国立駅は大正15年ですから、私が生まれるずっと前です。
しかし、その後武蔵野線が交差することになり、国分寺と国立の間に「西国分寺」の駅ができました。
これは昭和48年というので、私が国立に通っていた時にはまだありませんでした。
当然この辺の駅は高架駅ではなくこんなに交通量もなかったのです。
それにしてもすっかり変わってしまっていました。
今度の土日(5/19−20)また中央線の武蔵小金井で工事のため大幅間引き運転があるそうです。
案内が出ていました。高架線にする前の、昔の開かずの踏切問題を思い出しますね。

立川駅北口。駅ビルとルミネ一体で、線路は高架ですから2階に改札があります。

2階から歩道橋広場が伸びています。

こんなか感じです。

歩道橋広場の隅にはこんなオブジェが・・・。
調べてみると立川駅周辺には野外彫刻がたくさん置かれているらしい。
今度来るときには昭和記念公園とともにいろいろな彫刻を見て歩くのも面白そうだ。

北口の通りには中央に木(けやき?)があってこのような通りは好きである。
昔の街路樹を残して通りを広げたのだろう。

北口の前には伊勢丹があり、その奥に並んで高島屋があります。
そこまで2階の歩道橋広場でつながっています。

久しぶりの飛行機雲です。
帰りは東京駅からは高速バスで石岡へ。
しまった。バスは空いていたが、スカイツリーは進行方向右側だったが左側に座ってしまった。


首都高速6号線は隅田川に沿って走ります。
両国から駒形橋・吾妻橋・言問橋と来て、右手は東京スカイツリーが目の前です。
しかし座ったのが左側なのでスカイツリーと反対側の川を下る船をパチリ。
シーズンには屋形舟がたくさん浮かぶ場所です。

やっとカーブで後ろにスカイツリーを撮ることができました。
手前の道路は今通ってきた高速道路です。
← よろしければクリックお願いします。息栖神社(3)-忍潮井
東国三社の一つといわれる息栖(いきす)神社の三回目です。
通りから矢印があり神社の鳥居が見えてすぐに神社は分かり一応の参拝と見学を終えて、別な場所に行く用事があったため、急いで引き返そうと車で前に来た道を戻りかけて、まだ見ていないものがあったことに気がついて急いでまた元の曲がり角まで戻りました。
この神社が日川地区からこの地に移されたことを証明するような話が残されていたことを思い出したのです。
それが日本三霊水といわれる「忍潮井(おしおい)」です。
息栖神社への曲がり角から反対側の常陸川の川岸に近い場所に鳥居がもうひとつあるのです。

昔は香取海(かとりのうみ)や流れ海と呼ばれていた霞ヶ浦一体が大きな内海で、この辺は海水が満ちていました。
その海の水の中から綺麗な真水が吹き出していたのがこの忍潮井(おしおい)です。
看板:
「息栖神社と河岸:
江戸以前の利根川は直接東京湾へ注ぎ、現在の利根川中・下流域は常陸川とよばれていた。この2つを承応3(1654)改修工事で1本となり、消費都市江戸への水運路となった。利根川の水運は物資だけでなく旅行者にも多いに利用され、この息栖津には東国3社参詣や下利根川遊覧の人々が押し寄せた。これらの人々を乗せて利根川を上下したのは「木下茶船きおろしちゃぶね」と呼ばれた乗合船・遊覧船で、木下河岸からの船出は江戸中期には一日平均12艘・年間約一万七千人が利用した。
忍潮井も神社と共に有名になり、伊勢の明星井(あけぼののい)、山城・伏見の直井(なおい)とあわせ日本3所の霊水(日本三霊泉)と言われた。
忍潮井:
神宮皇后3年(194)、真水淡水が海水を押し分け涌き出た所から、オシオイ忍潮井と名づけられた。
男甕は径2m弱の白御影石で銚子形、女甕はやや小ぶりで土器形をしている。
伝説:男瓶・女瓶
大同2年4月、数キロ下流の日川地区より息栖神社がこの地に移された際、神を慕い男瓶女瓶は三日三晩哭きつづけ、ついには自力で川を遡りこの息栖の一の鳥居の下に据え付いたという。この地に定着した後も男瓶・女瓶は日川を恋しがり泣いたという。
日川地区には瓶の泣き声「ぼうぼう川」と別れを惜しんで名づけた「瓶立ち川」の地名が今も残る。
地名の伝承:河口の洲ができる・顕れる「興る・おきす」、洲が息をするように顕れ消える「息する・いきす」などがある。この息栖から晴れた日にはくっきりと見える「筑波山」は霞ヶ浦が海続きだった頃、麓まで波がよせていたからという。」

しかし、説明にあるようにこの井戸はこの息栖神社と共に、もっと東側にある日川地区にありました。
大同二年(807)にこの地に神社を遷宮した時に、この不思議な井戸は離ればなれになることを悲しんで泣いたそうです。
日川地区にその泣き声が残され、「ボウボウ河」という地名もあるといいます。
そして、いつの間にか井戸(甕)がこの今の場所に移動した(歩いた)というのです。
まあほかに説明の使用はないのでこんな話になるのでしょうが、面白いですね。


男甕(おがめ)、女甕(めがめ)の二つの井戸同じように左右に並んでいますが、どちらが男か女かはわかりませんでした。

ちょうど川から引き込んだ入江のような静かな場所にあります。

こちらは神社の境内に作られた碑文です。作られたのは平成19年ですので大分最近ですね。

神社の拝殿。緑と神社の朱色がきれいにマッチしている。

調べればたくさんの事柄が出てきそうです。
一度訪れて見られたらと思いますが、バスなどで行かれるのも少し大変かもしれません。
息栖神社はこれで終わりです。
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通りから矢印があり神社の鳥居が見えてすぐに神社は分かり一応の参拝と見学を終えて、別な場所に行く用事があったため、急いで引き返そうと車で前に来た道を戻りかけて、まだ見ていないものがあったことに気がついて急いでまた元の曲がり角まで戻りました。
この神社が日川地区からこの地に移されたことを証明するような話が残されていたことを思い出したのです。
それが日本三霊水といわれる「忍潮井(おしおい)」です。
息栖神社への曲がり角から反対側の常陸川の川岸に近い場所に鳥居がもうひとつあるのです。

昔は香取海(かとりのうみ)や流れ海と呼ばれていた霞ヶ浦一体が大きな内海で、この辺は海水が満ちていました。
その海の水の中から綺麗な真水が吹き出していたのがこの忍潮井(おしおい)です。
看板:
「息栖神社と河岸:
江戸以前の利根川は直接東京湾へ注ぎ、現在の利根川中・下流域は常陸川とよばれていた。この2つを承応3(1654)改修工事で1本となり、消費都市江戸への水運路となった。利根川の水運は物資だけでなく旅行者にも多いに利用され、この息栖津には東国3社参詣や下利根川遊覧の人々が押し寄せた。これらの人々を乗せて利根川を上下したのは「木下茶船きおろしちゃぶね」と呼ばれた乗合船・遊覧船で、木下河岸からの船出は江戸中期には一日平均12艘・年間約一万七千人が利用した。
忍潮井も神社と共に有名になり、伊勢の明星井(あけぼののい)、山城・伏見の直井(なおい)とあわせ日本3所の霊水(日本三霊泉)と言われた。
忍潮井:
神宮皇后3年(194)、真水淡水が海水を押し分け涌き出た所から、オシオイ忍潮井と名づけられた。
男甕は径2m弱の白御影石で銚子形、女甕はやや小ぶりで土器形をしている。
伝説:男瓶・女瓶
大同2年4月、数キロ下流の日川地区より息栖神社がこの地に移された際、神を慕い男瓶女瓶は三日三晩哭きつづけ、ついには自力で川を遡りこの息栖の一の鳥居の下に据え付いたという。この地に定着した後も男瓶・女瓶は日川を恋しがり泣いたという。
日川地区には瓶の泣き声「ぼうぼう川」と別れを惜しんで名づけた「瓶立ち川」の地名が今も残る。
地名の伝承:河口の洲ができる・顕れる「興る・おきす」、洲が息をするように顕れ消える「息する・いきす」などがある。この息栖から晴れた日にはくっきりと見える「筑波山」は霞ヶ浦が海続きだった頃、麓まで波がよせていたからという。」

しかし、説明にあるようにこの井戸はこの息栖神社と共に、もっと東側にある日川地区にありました。
大同二年(807)にこの地に神社を遷宮した時に、この不思議な井戸は離ればなれになることを悲しんで泣いたそうです。
日川地区にその泣き声が残され、「ボウボウ河」という地名もあるといいます。
そして、いつの間にか井戸(甕)がこの今の場所に移動した(歩いた)というのです。
まあほかに説明の使用はないのでこんな話になるのでしょうが、面白いですね。


男甕(おがめ)、女甕(めがめ)の二つの井戸同じように左右に並んでいますが、どちらが男か女かはわかりませんでした。

ちょうど川から引き込んだ入江のような静かな場所にあります。

こちらは神社の境内に作られた碑文です。作られたのは平成19年ですので大分最近ですね。

神社の拝殿。緑と神社の朱色がきれいにマッチしている。

調べればたくさんの事柄が出てきそうです。
一度訪れて見られたらと思いますが、バスなどで行かれるのも少し大変かもしれません。
息栖神社はこれで終わりです。
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昨日の息栖神社の続きです。
息栖神社の境内にはいくつかの句碑が立てられています。


まずは境内を進んですぐ左側に赤い柵で囲われた場所があります。
向かって左側には「力石」とあり、右側には芭蕉の句碑があります。

この力石は春秋の祭り夏の昼休み夕涼みがてらに集った若者たちの力競べに用いられたもので外にも幾つかの小振りな石があり、それぞれに手頃の石に挑戦し体力を誇り練り自信を深め最後に、この石を高々と差し上げた者が力の王者としての栄誉を受けたと云われている。野趣に満ちた極めて素朴な競ではあるが社の中で行われるだけに神と人間とが一体となって体力と気力の発散に汗みどろになって喜ぶさまが偲ばれる。現代人には程遠くなった祖先たちの青春時代の遺物の一つである。
なお、この石の一つ(右側の50貫余)は対岸の侠客、笹川の茂蔵が自らの力を試すために使われ奉納されたものと伝えられ「茂蔵の力石」とも云われている。(現地説明看板)
鹿島神宮、香取神宮には「要石(かなめいし)」があり、鹿島神宮の要石は地震を起こすなまずを押さえつける石と伝えられているが、これは力比べの石だそうだ。

こちらが隣にある芭蕉の句碑です。内容は下の説明文のとおり。

気吹戸主(いぶきとぬし)の説明面白いですね。いろいろと知らないことが多いことを今更自覚してしまいます。
芭蕉もいろいろな知識が豊富なんですね。
このようなことを知って、この神社を訪れたらまた違って見えたり感じたりするのかも知れません。

こちらには鎌倉時代の「新和歌集」の歌が載っていますが、何といっても藤原時朝=笠間時朝(笠間城の初代城主)の歌が載っています。
笠間を訪れた時に出てきた時朝の歌がこんな場所で見つけられたのはとても嬉しいです。

こちらはそれよりも前の歌ですね。説明は下の通り。

これは明らかに息栖=沖洲ということを書いていると解釈してみました。
沖にある洲の場所に建てられた神社なのです。
神社の祭神は岐神(くなどのかみ)=於岐都説神、天鳥船(あめのとりふね)神、住吉三神の五神を祀っています。
すべて船や交通の安全をつかさどり、先達をする神のようです。
天鳥船は空を飛びますので航空関係の関係者等もお参りにこられるのでしょう。

御神木のスギの木です。説明には夫婦杉とあり、樹齢約千年と書かれています。
(千年の杉には見えません)

息栖神社は静寂で美しい神社です。
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息栖神社の境内にはいくつかの句碑が立てられています。


まずは境内を進んですぐ左側に赤い柵で囲われた場所があります。
向かって左側には「力石」とあり、右側には芭蕉の句碑があります。

この力石は春秋の祭り夏の昼休み夕涼みがてらに集った若者たちの力競べに用いられたもので外にも幾つかの小振りな石があり、それぞれに手頃の石に挑戦し体力を誇り練り自信を深め最後に、この石を高々と差し上げた者が力の王者としての栄誉を受けたと云われている。野趣に満ちた極めて素朴な競ではあるが社の中で行われるだけに神と人間とが一体となって体力と気力の発散に汗みどろになって喜ぶさまが偲ばれる。現代人には程遠くなった祖先たちの青春時代の遺物の一つである。
なお、この石の一つ(右側の50貫余)は対岸の侠客、笹川の茂蔵が自らの力を試すために使われ奉納されたものと伝えられ「茂蔵の力石」とも云われている。(現地説明看板)
鹿島神宮、香取神宮には「要石(かなめいし)」があり、鹿島神宮の要石は地震を起こすなまずを押さえつける石と伝えられているが、これは力比べの石だそうだ。

こちらが隣にある芭蕉の句碑です。内容は下の説明文のとおり。

気吹戸主(いぶきとぬし)の説明面白いですね。いろいろと知らないことが多いことを今更自覚してしまいます。
芭蕉もいろいろな知識が豊富なんですね。
このようなことを知って、この神社を訪れたらまた違って見えたり感じたりするのかも知れません。

こちらには鎌倉時代の「新和歌集」の歌が載っていますが、何といっても藤原時朝=笠間時朝(笠間城の初代城主)の歌が載っています。
笠間を訪れた時に出てきた時朝の歌がこんな場所で見つけられたのはとても嬉しいです。

こちらはそれよりも前の歌ですね。説明は下の通り。

これは明らかに息栖=沖洲ということを書いていると解釈してみました。
沖にある洲の場所に建てられた神社なのです。
神社の祭神は岐神(くなどのかみ)=於岐都説神、天鳥船(あめのとりふね)神、住吉三神の五神を祀っています。
すべて船や交通の安全をつかさどり、先達をする神のようです。
天鳥船は空を飛びますので航空関係の関係者等もお参りにこられるのでしょう。

御神木のスギの木です。説明には夫婦杉とあり、樹齢約千年と書かれています。
(千年の杉には見えません)

息栖神社は静寂で美しい神社です。
← よろしければクリックお願いします。息栖神社(1)-東国三社
銚子に何度か用事があり車で行っていますが、途中の息栖大橋の近くを通るたびに一度行ってみたいと思っていました。
行ったのはもう連休前の4月末です。
鹿島神宮・香取神宮といういわば別格の神社があるわけですが、これにこの息栖神社を加えて東国三社と呼ばれています。
3つの神社を結ぶと直角三角形となるために、レイラインの心霊スポットとしても注目されている場所なのですが、これも息栖神社の位置を移動して故意に作られたものではないかとも思われます。
Flood MapによってGoogle地図に今より水位が3m高い時の地図にこの東国三社の位置関係を載せてみました。

地図に日川を載せているのは、この息栖神社が大同2年(806)にこの日川地区よりこの現在の地に移されたとされているからです。
以前「於岐部説神社(おきつせじんじゃ)」という行方市にあるこじんまりした神社を紹介しました(こちら)
この時に「於岐部説神社」という名前は、この息栖神社のことを一般には指すという話を書きました。
また於岐部説=おきつせ=沖洲であることも書きました。
利根川と常陸川が合流する少し手前の水門の少し上流に常陸川に架かる橋を息栖大橋といいます。
この橋を(千葉県川から)渡って次の信号を左(西)に曲がって少しいったところに息栖神社の森があります。

通りから少し入ったところに入口鳥居があります。
この神社はとても静寂な空気が漂っています。身が引き締まるようです。
この神社の場所が今では行くのが不便で訪れる人も少ないようですが、一度訪れてみたら良いと思います。
昔は霞ヶ浦水運が発達していた時は霞ヶ浦から利根川に物資を運ぶ要のような位置にもあり、信仰もかなりあったようです。

神社の境内も綺麗に掃き清められており、ひっそりとした雰囲気はさすがに東国三社の一つです。

歴史的には何度か建て直されているので建物としてはそれ程古いとは思われません。

4月末ですのでボタン桜と赤い神社の拝殿や鳥居が緑の中で美しさを引き立ててくれます。

上の説明看板は神栖町教育委員会が門の入口に掲げたものです。
日川から移されたことが書かれています。
また昭和35年の火事で社殿を新築したことが記されています。

こちらは神社側が拝殿近くに掲げた説明看板です。
少し教育委員会のものとはニュアンスが違いますね。
それぞれじっくり読むととても面白そうですので、そのまま写真で掲載しました。

本殿です。やはりかなり新しそうです。

境内に置かれていた昔の「礎石」です。
一緒に書かれていた説明文を載せておきます。
「息栖神社の御本殿は平城天皇の御代(大同二年四月十三日)806、奈良時代に此の地に遷宮されました。以来、貞観八年一月(876)、宝永三年(1704)、享保八年(1723)、弘化四年(1848)と、数回に及ぶ立替えがありました。此の五個の石はそのいずれの時かに礎石として使用されて以来、昭和35年迄その務めを果たしました。」
少し面白い書き方ですね。学術的には調べれば年代は分かりそうですが、ともかく礎石のお役目ごくろうさまでしたというところでしょうか。
またあすに続きます。
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行ったのはもう連休前の4月末です。
鹿島神宮・香取神宮といういわば別格の神社があるわけですが、これにこの息栖神社を加えて東国三社と呼ばれています。
3つの神社を結ぶと直角三角形となるために、レイラインの心霊スポットとしても注目されている場所なのですが、これも息栖神社の位置を移動して故意に作られたものではないかとも思われます。
Flood MapによってGoogle地図に今より水位が3m高い時の地図にこの東国三社の位置関係を載せてみました。

地図に日川を載せているのは、この息栖神社が大同2年(806)にこの日川地区よりこの現在の地に移されたとされているからです。
以前「於岐部説神社(おきつせじんじゃ)」という行方市にあるこじんまりした神社を紹介しました(こちら)
この時に「於岐部説神社」という名前は、この息栖神社のことを一般には指すという話を書きました。
また於岐部説=おきつせ=沖洲であることも書きました。
利根川と常陸川が合流する少し手前の水門の少し上流に常陸川に架かる橋を息栖大橋といいます。
この橋を(千葉県川から)渡って次の信号を左(西)に曲がって少しいったところに息栖神社の森があります。

通りから少し入ったところに入口鳥居があります。
この神社はとても静寂な空気が漂っています。身が引き締まるようです。
この神社の場所が今では行くのが不便で訪れる人も少ないようですが、一度訪れてみたら良いと思います。
昔は霞ヶ浦水運が発達していた時は霞ヶ浦から利根川に物資を運ぶ要のような位置にもあり、信仰もかなりあったようです。

神社の境内も綺麗に掃き清められており、ひっそりとした雰囲気はさすがに東国三社の一つです。

歴史的には何度か建て直されているので建物としてはそれ程古いとは思われません。

4月末ですのでボタン桜と赤い神社の拝殿や鳥居が緑の中で美しさを引き立ててくれます。

上の説明看板は神栖町教育委員会が門の入口に掲げたものです。
日川から移されたことが書かれています。
また昭和35年の火事で社殿を新築したことが記されています。

こちらは神社側が拝殿近くに掲げた説明看板です。
少し教育委員会のものとはニュアンスが違いますね。
それぞれじっくり読むととても面白そうですので、そのまま写真で掲載しました。

本殿です。やはりかなり新しそうです。

境内に置かれていた昔の「礎石」です。
一緒に書かれていた説明文を載せておきます。
「息栖神社の御本殿は平城天皇の御代(大同二年四月十三日)806、奈良時代に此の地に遷宮されました。以来、貞観八年一月(876)、宝永三年(1704)、享保八年(1723)、弘化四年(1848)と、数回に及ぶ立替えがありました。此の五個の石はそのいずれの時かに礎石として使用されて以来、昭和35年迄その務めを果たしました。」
少し面白い書き方ですね。学術的には調べれば年代は分かりそうですが、ともかく礎石のお役目ごくろうさまでしたというところでしょうか。
またあすに続きます。
← よろしければクリックお願いします。常陸風土記の丘と藤の花
約1週間ぶりに常陸風土記の丘へ行ってみた。
目当ては藤棚であるが、まだ少し花は小さかった。
これが大きな房になるときっとこの花もここの名物になるだろう。
「枝垂れ桜」「藤」「スカシ百合」「紫陽花」「古代ハス」と花の楽しめる期間も長くなる。
まだまだ地元の方にもあまり知られていないが、無料で見られるのだからユリなどは是非見てもらいたい。




この写真は昨日訪れた時のものだが、ほとんど人はいなかった。八千代市のバスが1台きていたくらい。
自家用車も20台以下。金曜日だからまあしょうがないが、出店もなし。
公園内は無料だが、初めての方は是非内部の有料設備の展示場も見て欲しい。
休みの日には歴史ボランティアの説明も受けられます。
鹿の子遺跡の復元住宅などこの場所が蝦夷攻撃のための武器工場であったことなどを是非知らしめて欲しい。
この「地下の正倉院」とも呼ばれる重要な遺跡が、常磐高速の建設で見つかり、この地に復元したものだが、地元でもこの重要性があまり理解されていないように思う。
子供の見学にも最適で、貝塚なども作られている。歴史は自慢するものではないが、もし自慢するなら平家の祖といわれる平国香や手塚治虫の先祖などのことよりもむしろこちらの方がずっと大切なもののように思っています。
市としてもこの展示場の展示物の詳細な資料を作成して、是非安価な金額で買えるようにして欲しい。
多分図書館では資料がある程度あるはずだが、一般向けでないし、子供が見学に来た時の学習用としてもあればいいなと思ってしまう。
文化を大切に広報に力を入れていってほしいと願っています。
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目当ては藤棚であるが、まだ少し花は小さかった。
これが大きな房になるときっとこの花もここの名物になるだろう。
「枝垂れ桜」「藤」「スカシ百合」「紫陽花」「古代ハス」と花の楽しめる期間も長くなる。
まだまだ地元の方にもあまり知られていないが、無料で見られるのだからユリなどは是非見てもらいたい。




この写真は昨日訪れた時のものだが、ほとんど人はいなかった。八千代市のバスが1台きていたくらい。
自家用車も20台以下。金曜日だからまあしょうがないが、出店もなし。
公園内は無料だが、初めての方は是非内部の有料設備の展示場も見て欲しい。
休みの日には歴史ボランティアの説明も受けられます。
鹿の子遺跡の復元住宅などこの場所が蝦夷攻撃のための武器工場であったことなどを是非知らしめて欲しい。
この「地下の正倉院」とも呼ばれる重要な遺跡が、常磐高速の建設で見つかり、この地に復元したものだが、地元でもこの重要性があまり理解されていないように思う。
子供の見学にも最適で、貝塚なども作られている。歴史は自慢するものではないが、もし自慢するなら平家の祖といわれる平国香や手塚治虫の先祖などのことよりもむしろこちらの方がずっと大切なもののように思っています。
市としてもこの展示場の展示物の詳細な資料を作成して、是非安価な金額で買えるようにして欲しい。
多分図書館では資料がある程度あるはずだが、一般向けでないし、子供が見学に来た時の学習用としてもあればいいなと思ってしまう。
文化を大切に広報に力を入れていってほしいと願っています。
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